昭和48年05月10日 月次祭



 毎日頂いております御教え、またその御教えを、日々思い出させて貰うては、味あわせて貰う。その事を今日は聞いて頂きたいと思います。何でも私は味合うと言う事が、おかげだと思います。自分の好きなものだけは美味しい。けれども嫌いなものは、嫌いだと言ってしまわずに、嫌いなものを味わうという気持ちになりますと、今まで好きであったと思うておった以上に、好きになる事があります。
 苦いものの中には、苦い味わいがある。辛いものの味わいの中には、辛いものの味わいが、味あわれると言う事。信心も矢張り味わいを分からせて貰わなければ、本当の信心は生まれて来ないと思うんです。まぁ言うならここ二三日の御教えを頂かせて貰うて、私が、味あわせて頂いておる事どもを聞いて頂こうと思う。昨日、一昨日の朝の御理解でしたか、「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」と。生きたくば神徳を積みて長生きをする。金光様の信心しよら、長生きをするという意味ではないと言う事です。
 これは信心をさせて頂いて、永劫、長生きをすると。何時何時までも、生き生きとして、肉体をなくしましても、御霊ながらの働きが出来るほどしのおかげ。それを、教祖様は、此の方とても、塩漬けではないと仰る。金光様あなたは人から生神様、生神様と言われなさるほどしの、お徳を受けられたのですから。もうそれこそ百までも、二百までもお生きになるという風に、思うておった人もやっぱあったらしいです。生神様だから生き通しだろうと思う。
 所が此の方とても、塩漬けではないからと仰っておられる。だから長生きをするという事は、後々の者から拝まれる事じゃと仰っておられる。後々の者から例えばほんなら、ここで言うなら、私が本当の徳を受けさせて頂いたら、合楽教会のある限り、合楽にご神縁を頂いた人達が、先代の御霊様と言うて拝んで下さるだろうと思う。お祭りなんかも教会が発展すれば、発展するほど賑やかな、大きなお祭りが出来うようになるだろうとこう思う。ですから神徳を積みて長生きをせよと仰る。
 神徳を積ませて頂かなければ、誰も拝んではくれません。神徳を積むと言う事は、どう言う様な事だろうか。昨日の御理解でしたか。昨日一昨日でしたでしょうかね。とかく信心は根を肥やせ。とかく信心は根を肥やす。根を肥やしておけばひとりでにものが出来るようなものぞと仰る。ひとりでに物が出来る。これはお百姓の方達が、田地田畑を荒らさない限り、年々歳々麦なら麦、米なら米お野菜ならお野菜が、年々歳々ひとりでに物が出来るように出来てくる。
 それには矢張り田地田畑というものが、次々と肥料が施されて、畑を肥やしておかなければならないように、私共の心もです。とか、信心は根を肥やせと。根と言う事は心と言う事である。私共の心を肥やしておく所のおかげを頂かなければならぬ。根を肥やすと言う様な事は、どう言う様な信心させて貰うたら、根が肥えるだろうか。この辺が私は信心の味わいだと思うのです。
 昔から相場が決まっておることは、もうこの世は苦の世だ苦の世界だと言う事である。この世の中には、いわば難儀が満ち溢れておるのだと。思う様にならんのが浮世である、と言うのである。親が先立った、子供が先立ったり、思う様にならんのが浮世。これはどんどろ返しの場で、巡礼お鶴とお弓のセリフですよね。思う様にならんのが浮世だと。だからこの世はとにかく、苦の世だ苦の世界だと言う中からです。その思う様にならない事を、味あわせて頂こうというのが信心。
 この世は苦の世だ苦の世界だという、その苦と思うておる、その苦そのものに本気で取り組んで、それを味おうて行こうというのである。私は信心はそれだと思うんです。そこからです。思う様にならぬ浮世どころではない。思う通りどころではない、思い以上いうならば夢にも思わなかった幸せの展開になってくる訳です。それが信心でいうおかげの世界であります。そのおかげの世界が有難い。思うてみればそれこそ五六日前に、佐田のお婆ちゃんが言うておられますように。
 信心させて頂くようになって、もう二十年余りにもなるか。椛目時代におかげを頂いて思うてみますと、振り返ってみますとです。年々有難い事が増えてきておるのに、最近しきりに気付かせて貰うて、お礼を申しておりますとこう言う。信心をさせて頂いておると、様々な事がある事はあった。けれども年々有難い事が多くなっておると言う事に、気付かせて頂いたとお礼を言うておられます。
 今朝なんかは、親先生本当に屑の子、屑の子と天地の親神様は、屑の子ほど可愛いと仰せられるそうでありますけれども。私はここ一両日特に思う事は、私こそいよいよ屑の子であるという自覚が出来てきたと言う意味のお届けをしておられます。有り難い。これが信心の味わいの私は第一歩だと思う。私が出来ておる。私はこれほどやっておるのにと言うのではなくて、私ぐらいな者に私のように出来ない者に、しかもかくまでのおかげを頂いて勿体ない。
 私こそ本当に神様の目からご覧になれば、屑の子に違いは無いという自覚。信心はそこん所を教えるのです。又は愈々自分自身を見極める事を教えるのです。そこから生まれてくるのが、屑の子の自覚である。私の様な者が私の様な者がと言う所からです。低い所へ水が落ちて行く様に、お恵みのおかげが、多くなってくる訳であります。だから一年一年有難うなってくる。一年一年有難い事が多くなってくる訳であります。
 今朝の御理解に、四十二節だったでしょうね。四十二節でした。今朝の御理解はね。そういう御理解でした。四十二節はね。これ程信心するのにどうしてこの様な事が起きてくるのであろうかと思うたら、もう信心は留まっておるんだと。是はまぁだ私の信心が足りんからじゃと、そこから一心の信心をしていけば、そこからおかげが受けられるという御理解じゃった。ここ二三日の御理解を、思わせて頂いてです。
 二三日の今私が二日間の前の御理解を申しました御理解が、この中に入ってくる時に、愈々信心の味わいの深さを、感じずにはおられません。これ程信心するのにどうしてこの様な事がというたら、もう信心は留まっておる。そこに屑の子の自覚と言うものが、出来ておらなければ、本当に信心も出来ませんのにと言う事の自覚が、心の中に何時もありますから、愈々これはまぁだ私の信心が足りぬからと言う、信心本来の根本姿勢だと言う事だと、私は今日皆さんに聞いて貰った。
 この御理解四十二節と言うのはです。もう信心を進めて行く事の為の、根本姿勢であります。何時の場合であっても、どんな時であっても、これ程拝みよると言う、これだけお願いしよるというとにと言うのではなくて。そういうたら信心は崩れておるわけです。留まっておる訳です。そこの所をです是はまぁだ自分の信心が足りぬからだと言う信心。そこでこの四十二節を私共がです。本当に味あわせて頂く。ここん所を本当に自分のものにしていくと言う、心栄えとでも申しましょうか。心掛けとでも言おうか。
 これはちょうど、孔子が親に仕えるような心掛けにならせて頂いたら、この四十二節を全うする事が出来る。しかもおかげの世界から、神徳の世界に入って行く事が出来る。生きたくば信心をして、長生きをせよと言うのは、ここのおかげの世界から、いうなら神徳の世界に入っていく。信心の味わいと言おうか。とかくに信心は根を肥やせ。思う様にならん事が一杯なんだけれども、思う様にならない事を、信心の根肥し心の根肥しとさせて頂くという生き方。
 この生き方を先ず身に着けさせて頂く事によって、限りないおかげの世界を味あう事が出来る。それをここでの古い言葉を持ってすると、成り行きを尊ばせて貰うと言う事であり、御事柄として、全てを頂いていくと言うのですから、愈々心が肥えてくる。根が肥えてくる。それがね例えば根が肥えてくるという、そこん所がね味わいなんです。腹の立つこともある。情けない悲しい思いをする事もある。私は大体何というですかね。人恋しがりやですから、何時も人が来て賑やかにしておる事が好きだったんです。
 この頃はですね。私は一人で静かにしておる事がもう非常に有難い。それこそこよなく有難いものだと言う事を、この頃気付かせて頂いておる。月次祭ともなると晩はさぁ誰も残っとけ、彼も残っとけと言うて言いよった。もうこの頃はお祭りが済んだら、誰にも裏さん来んのとも言わん。お茶頂かじゃんのとも言わん。もうこの頃はお祭りが済んだら、直ぐ自分の部屋へ引っ込んでしまう。所謂一人の味わいと言うものが分かってきた。同時に人に迷惑を今までは、掛けておったなぁと言う様な事も反省されてきた。
 例えば腹が立つとか、情けないとかイライラするとか。そのイライラするとか、情けないとか悲しいとかと言う、その問題を味あうのである。ずうっと心を神様に向けさせていただいておるとです。その腹の立っておる、煮えくり返るような思いがする。それが段々、治まってくるだけではなくて、成程なるほどという、味わいが出てくる。それを私は信心の味わいだと。
 もうあれが言うた事が忘れられん。腹が立ってたまらん。それをもって神様へ向かう。そこから味わいが出てくる。はぁ本当にあの人があぁ言うたが、あぁ言う筈だと言われておかげを頂いたという有難い。是が味わいなんだ。是はとてもガヤガヤしとる時なんか味わえるもんじゃなか。一人じっと神様に心を向けさせて頂いて、日頃の御教えを頂いておる内に、それが素晴らしい味わいになってくる。そういう味わいが私はわが心を肥やす事であり、とかく信心は根を肥やせと言う事は、そう言う事だと思うのです。
 ただ腹の立つとが、じっと、何時の間にか治まって、日を経つに従って、忘れたといった様なもんじゃなくてね。自分の心のなかで一遍消化されると言う事。しみじみそれを味わうと言う事。それが十分それを肥料として、受け止めさせて頂くと言う事。それが段々、出来て来る様になるとです。それこそ石井喜代司さんじゃないけれども。難儀な事が楽しいごとなってくる。とかくに信心は根を肥やせ。根を肥やしておけばひとりでに物が出来るようなものと言う事なんです。
 この頃何時かの壮年部会に、喜代司さんが発表しておりました。大体喜代司さんあんたは、自分だけはえらい有り難か風ばってん、子供達に対する信心と言った様なのが、あんたどういう風に考えておるのかという、私が質問をした。所が言い様がないと言うのは、どう言う事かというと。実を言うとです、私がこんな信心をさせて頂いとりますと、第一家内がそれこそ、勿体ないようにおかげを頂いてくれます。兄弟子供が三人居りますがです。もう長男は長男、次男は次男一番下は下がです。
 もうそれこそ親の言葉からは、可笑しいごたるけれども、親勝りのおかげを頂いて成長させて頂いておる。しかも皆んなが親孝行だと、こう言うのです。もう言い様がない。いうならばひとりでにそのようにして成長しておる。ひとりでに有難い雰囲気が生まれておる。それはです腹を立てる段じゃない。例えば思う様にならない問題をです。もう一切、自分の肥料として、それを味わいとさせて貰って、頂き抜いていっておるという生き方から、おかげの世界に住んでおると言う事が言えるのです。
 私は先ずはここを一つ頂かにゃいけん。これに徹することなんだ。御事柄として一切を受けて受けられない事もある。けどもそれをじっと心を神様へ向けて、日頃の教えを頂いておると、それに色んな味が付いて来る。味が付いて来ると、それが成程美味しいものであると言う事が血に肉になる。それこそ血になる肉になる事が、是に感じられる程しに有難くなってくる。信心の味わいである。その信心の味わいこそがです。とかくに信心は根を肥やせと言う事なのである。
 そこからひとりでに物が出来るという、おかげの世界に住む事が出来る。そういう有難いという心をもって五つの願いに入る。体の丈夫を願わせて貰う。家庭円満のおかげを頂かせて貰う。子孫繁盛家繁盛のおかげを頂かせて貰う。これを真剣に願わせて貰う。真実の御用が出来ますように。神願成就和賀心時代を作ると言う様な、神様の悲願神願でもあろうと思われるそういう願いに、私のようなものでもお使い回しを下さいと言う、おかげになってくる。ここからがいわば神徳の世界である。何故神徳の世界。
 だからですね例えて、最近私がここ二三日、今思うておる事はです。例えば本当に成り行きを大事にさせて貰う。それこそ難儀な事は難儀な事とせずに、それを受けていく。思う様にならん事が浮世だけれども。思う様にならない事、そのものの味わいを、味あわせて頂く道を教えて頂く。そしてそれを味わいとして、和賀心の根肥しにさせて貰う。とかくに信心は根を肥やして行く所のおかげを頂く所から、ひとりでに物が出来るという。これは神様がそれこそ、無条件におかげを下さる。
 こういう状態になったら。願わんでも頼まんでも。ここん所がです。所謂思う様になる位な事ではない。それこそ夢にも思わなかったようなおかげの展開になってくる。そこからです例えば、今日の四十二節の御理解を頂かせて貰う。今朝からの御理解、四十二節はどういう御理解でしたかね。私は直ぐ忘れる。もう血に肉になってしもうとるけんで、もう粕の所は忘れてしもうとるもん。なんじゃったのああそうそう。これがおかげを頂いていく神徳を受けていく姿勢だと。
 これ程信心するのにどうしてこの様な事が起きてくるであろうかと思わずにです。これは私の信心が足りんからだと、それ真正面から有難く受けていく。修行として受けていくと言う事が、取りも直さず自分の心を肥やしていくという事だと。そこから一心の信心をさせて頂く所から、おかげが受けられるという、おかげはもう神徳の世界だ。その四十二節をです。どうしてこの様な事が起きてくるであろうかと言うのではなくて、私の信心が、足りないからだという頂き方はです。
 親孝行の精神だ。それは孔子が親に尽くしていく、あの心栄えというものが、この御教えの中心にならなければならない。それが信心をさせて頂く者の、いわばおかげを頂いていく者、御神徳を受けていく者の根本姿勢だと言う事です。どう言う事があっても、親と子の縁が切れるはずはなか。例えば親子喧嘩した所で、親子の縁が切れるはずはないように。私共と神様とのいうならば、断絶と言うものがです。これだけ信心するとにどうして、こういう事が起こったじゃろうか。
 もう信心なんかせんと言う所に、神様との断絶になっちゃうんです。これはまぁだ私の信心が足りぬからだという所からです。益々親子の情と言うものは、密になっていく訳なんです。だからここが姿勢だ。支那の二十四孝という物語のなかに、二十四の親孝行の模範が、物語になってるのが、二十四考と言うわけですね。ある孝行の息子がです。父親が大変貧苦のなかに病気をしておる。夏蚊がいっぱい居るけれども、まぁ蚊取り線香もなかったらしい。蚊帳もなかった。
 そこで毎晩自分が真っ裸になって、親の枕元にじっとこうやって看病しとる。もう蚊は裸になっておる、その子供にいっぱい寄ってきた。そうして親を安楽にさせたとこう言うのです。いうならば親のために、いつでも犠牲になれれるという心だと思うんです。これはお互いにあるんですわねみんな。これは私共のぎりぎりになった時に、愈々情がつのってくる訳でしょうけれどもね。私の信心をいうならば、親孝行がしたいという一念が、私の信心、今日の信心を作っとると言うても良いのです。
 ですから親孝行の精神と言うものがです。私はない限りおかげは頂いても、御神徳の世界には入られんと思う。いうならば先ほども申しました。生きたくば神徳を積みて長生きをせよと言うのが、永劫私共、助かっていけれるような。永劫子孫の者のために働きかけが出来るほどしのです。私はお徳にはならない。神徳を積みて長生きをせよと言う事にならない。又もう一つの二十四考の話のなかに、竹の子掘りの話があります。いっぱい雪が降っておる寒いなかにです。
 親が竹の子を食べたいとこう言う。こげな寒か日にどうして筍があるかと。まぁその時分なかんぜんはなかったつでしょうたいねやっぱ。ですからもうその筍食べたいち言うならやっぱり、雪の尾根に入って掘るより他には無い。しかもこういう寒中に筍のあろう筈はないのだけれども、親が言うからいうならば筍掘りをするという、そういう純粋な素直な心が親孝行には必要なんだ。
 先ほど光昭が前講の時に話しておりました。もう、二三日すりゃ学院に行かなければならんが、さぁどういう信心をもって学院に行こうかと、毎日思いよるけれども。本当にこの様な事でどうすると、不安でたまらなかった。所が今朝の御理解を頂いてです。今朝の御理解を頂いて、ハァコレだとこれをもって、今度の御本部修行を一年間を努めさせて頂こうと思うたという話をしておりました。それは例えば親が喜ぶと言う所に焦点を置こうと言うておった。しかも今朝の話を頂いておると。
若先生が例えば朝の五時の御祈念を、五分切ってくる時には、もう私の信心を切り刻みされるような思いがすると言うて話した。ちょっと四五分早く出てきて、もうそれこそ座った時が五時と言う様な、きちっとした信心をしてくれるならです。もう是が私にとっては一番の、親孝行だと言う話をした。いやしてみると親ちゃ、単純なもんじゃなぁ親孝行ぐらいは、簡単だなぁと思うたとこう言う。確かに親は単純です。神様は単純です。もうちょっとしたその真心で動きなさるのですから。
 だからそれとはちょっと反対の、このくらいな事は良かろうと言うごたる、ちょっとした考え違いのことで、神様の心を切り刻みするような事になるのです。だから今度私は、学院に行くならばです。この事をもって学院にやらせて頂く決心が出来たと言うて話しております。いうならばそういう純粋な素直な、それに親のためならば夏のいっぱい蚊が居るなかにあってもです。自分が蚊に食われながらでも、親を楽にさせたいと言う様な心。それが親孝行の心である。
 親の前に犠牲になろうという心である。そういう心の状態。そういう親孝行そういう孝心。私は今朝からどういう御理解を頂こうかと思うたら、金光教教典という教典の表紙のところを頂いた。そして金光教教典という、教えと言う字を二つ頂いた。だから親孝行の孝という字が書いてあって、文という字が書いてありますよね。教えという字は。だからこちらをこうとってから見ると、半分孝行と言う事になる。ははぁ今日は親孝行の話しばいなと私は思うた。そして教典を開かせて頂いたら、四十二節であった。
 そして今までかって四十二節から、この様なふうにです。こういう御教えがこういう大変な御教えであると言う事は、孝行と言う事を中心にして、親孝行の心掛けをもって、この教えを頂くならば、もう頂く限り必ず、おかげの世界に住むことが出来る。それはどんな事が起こってきても。どうしてこう言う事が起こったじゃなく、これは信心が足りんのだと言うて、頂いていくというのですから、心が肥えない筈はないでしょう。だからひとりでに物が出来るような、おかげの世界にも住む事が出来るんです。
 同時に親のためになら自分が犠牲になっても、親に喜んで貰おうという、天地金乃神様の願いを分からせて貰うて、その願いに応えまつる。それは自分にとっては、少し犠牲を払わなければならんのだけれども、神様が喜んで下さるならばと言う生き方に行くのですから。神徳を受けない筈がない。だから四十二節をです、親孝行の心をもって、頂いていくならばおかげの世界に、又は御神徳の世界に住む事が出来る。永世生き通しに生きられるし、生きたくば信心して神徳を積みて長生きをせよ。
 とかくに信心は根を肥やせ。根を肥やしておれば、ひとりでに物が出来るようなものであろうぞいと言う、おかげの世界。これはまぁだ私の信心が足りぬからだと、一心の信心をさせて頂く所から、御神徳の世界に入っていけれるという大変な、今日はお話でございましたよね。それもです例えば難しく言わずにです。本当に孔子が親に仕える思い。親孝行がしたいばってん中々出来ん。親不孝をしたいという者はおらん。それをですもう一つね、親孝行がしとうてたまらんという気にならにゃいけん
 。親孝行がしとうてたまらんと言う、そういう心の状態の時にです。例えば親が何か良いものばくれる時だけ、親孝行と言うのは親孝行じゃない。例えばほんなら無理な事ば言うてもです。寒中に筍食べると言う様な事を言うてもです。こげな寒か日にどうして筍があるかいてんなんてんち言わずにです。それを純な心でです。それを受けていくと言うところからです。そういう心の状態を、親孝行の人の心の状態だと私は思う。そういう心掛けをもって、四十二節を頂いていくならばです。
 御神徳の世界にも住んでいくことが出来る。昨日一昨日、佐田さん所の宅祭りが終わった、その朝あちらのご主人が、是からは十九節で行けというお知らせを頂かれた。十九節と言うのはです。勿論御理解十九節の事です。金光大神は形がのうなったら、来てくれいと言う所に行ってやるという御理解です。いうならば御神徳を受けた人の姿なのである。これからは佐田さんもう一家がです。
 所謂御神徳を頂いていくと言うとの信心の味わいを、味あうていけ。これからこれ一本で行けといういうならば、御教えを頂かれたと言う事でございます。どうぞ一つ折信心をさせて頂くのですから、もうそれこそ喜代司さんが、言うわけじゃないけれども。もう一切が成就していく。しかも恩着せずに神様が、当たり前のようにして、全ての点に、おかげを下さる。おかげの世界に住まわせて頂く所の信心。それから一段進んで神徳を受けて行く所の信心にならせて頂きたいと思う。
   どうぞ。